『エリ・エリ・サバクタニ』(マタイ27:46)
何ゆえに見捨てたのですか
見捨てられたような悩み、苦しみ、災難等々が人生にはある。
見捨てられなかった人々&イエス
聖書にも多くの人達がそのような体験をした。ダビデ(詩編22:1・7,8)
アブラハム、モーセ、ダニエル、エリヤ等
しかし、「万事休す」の中でも彼らは「エリエリ・・・」とは叫ばなかった。
なぜなら、見捨てられなかったから。詩編22も最後は賛美と信頼で終わっている。ヨブもしかり。
イエスも最後は復活し、天に昇られた。
イエスの叫びゆえに、私たちも見捨てられない
イエスも聖徒も素晴らしい人々だが、しかし、「私には無理」・・確かに。
単純に見捨てられないんだ、と喜ぶのでなく、なぜ見捨てられないかを知る事が大切。
見捨てられても当然の罪人と認め切れているか。
「傷ついた、侮辱された、無視された、馬鹿にされた、悪口言われた、
治らない等で怒り、恨み、不平を抱くなら見捨てられて当然と思わず、
何故という」私たちは何故という資格はない。
イエスだけが「なぜ」と言える資格があった。そして、そう叫んで下さった・
それは何故と弁解できない私たちの代わりであった。
身代わりと優しさ
ひとり息子を救った父。息子は死んだから出兵出来ない。
自分が出来たら息子を救えた救命士の講師。
悲しみと罪責感を味わったから真に人に教えることが出来る。