『神のわざが現れるため』 ヨハネ9:1~7
酷い評価
盲目は不幸。盲目は罪の結果。障害は不幸、罪の結果という評価が事件さえ起こす。(障害者施設殺傷事件)
私たちも上辺だけで誤った評価を下す危険がある。誰かの責任、せいにする。
ユダヤ世界と同じように何かの所為(せい)にする文化が我が社会にもある。
雨女、雨男のような。
弊害
強い加害者意識:電信柱が高いのも・・ 挫折感、失望が生じる(牧師のせい)
強い被害者意識・・悪意、敵意 (こんな女に誰がした、でなく自分でなったのだ)
因果応報&蒔いた種の刈り取り
交通違反すると事故に遭う。嘘や悪口、陰口は信用消失。暴飲暴食は健康害。
ヨナ・ヤコブ・ハマン(エステル記)
イエスの答え:神のわざが現れるため(栄光の材料)
悪く見えることでも不幸につながるわけではない。(ヨブ)
例え自分の撒いた種の結果であっても。(放蕩息子)
大切な事:どこに身を置くか
盲人をイエスが見た。イエスの目が向けられた人は幸い。ザアカイやバルテマイ
そして、「イエスの前に身を置く」ことが大切。姦淫の女。ペテロ。パウロ。(金持ちの青年は離れて行った。)
わざが現れるためには
イエスを信じること ヨハネ6:29
信じるとは
その言葉を行う事 「行ってシロアムの池で洗え」「沖へ漕ぎ出し網を下ろせ」