1/19「ぶどうの木集会」メッセージ

Posted 1月 20th, 2017 by kai-yoshimi

『神のわざが現れるため』 ヨハネ9:1~7

酷い評価
  盲目は不幸。盲目は罪の結果。障害は不幸、罪の結果という評価が事件さえ起こす。(障害者施設殺傷事件)
私たちも上辺だけで誤った評価を下す危険がある。誰かの責任、せいにする。
 ユダヤ世界と同じように何かの所為(せい)にする文化が我が社会にもある。
 雨女、雨男のような。
弊害
強い加害者意識:電信柱が高いのも・・ 挫折感、失望が生じる(牧師のせい)  
強い被害者意識・・悪意、敵意 (こんな女に誰がした、でなく自分でなったのだ)

因果応報&蒔いた種の刈り取り
 交通違反すると事故に遭う。嘘や悪口、陰口は信用消失。暴飲暴食は健康害。
ヨナ・ヤコブ・ハマン(エステル記)

イエスの答え:神のわざが現れるため(栄光の材料)
 悪く見えることでも不幸につながるわけではない。(ヨブ)
例え自分の撒いた種の結果であっても。(放蕩息子) 

大切な事:どこに身を置くか
 盲人をイエスが見た。イエスの目が向けられた人は幸い。ザアカイやバルテマイ
そして、「イエスの前に身を置く」ことが大切。姦淫の女。ペテロ。パウロ。(金持ちの青年は離れて行った。)

わざが現れるためには
 イエスを信じること ヨハネ6:29
信じるとは
 その言葉を行う事 「行ってシロアムの池で洗え」「沖へ漕ぎ出し網を下ろせ」

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